Babri Masjid モスク破壊事件から30年

崩れ落ちたドーム、ポストトゥルースの時代、理念の衝突

Babri Masjid モスク破壊事件は、合理性が感情性に、客観性が複数の主観性に、大都市で認められていたコスモポリタニズムが日常のあからさまな分裂に、対立する時代へと私たちを導いた。 

注:Rama (ラーマ、Ram、Raman、 Ramar、Ramachandra)は、ヴィシュヌ神の化身として、ヒンドゥー教徒から広く信仰されている神です。古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』によると、ラーマは Ayodhya(アヨーディヤ)で生まれたとされています。16世紀、ムガール人はラーマの生誕地と言われるRam Janmabhoomi(ラム・ジャンマブーミ)の場所に、Babri Masjid Mosque(バブリー・マスジド・モスク)を建設しました。

https://www.outlookindia.com/national/30-years-of-babri-masjid-demolition-a-fallen-dome-post-truth-era-and-a-battle-of-ideas-news-242588

著者:Abhik Bhattacharya

更新: 2022年12月05日 5:25 PM

1992年12月6日、アヨーディヤで取り壊される直前のバブリー・マスジドの頂上に立つカルセバクたち(Karsevak(カルセバク)とは、宗教的な目的のために無償奉仕する人のことで、サンスクリットのKar (手)Sevak(奉仕)から来た言葉)たち 
Sanjay Sharma/Hindustan Times via Getty Images

 1992年12月6日は、インドの歴史に刻まれた日であり、世俗主義に関する議論が政治的な言説を形成するたびに、過去からの思い起こし或いは警告として思い出される日だ。インドが常に世俗的な国であろうと志していたとすれば、ムジブル・レーマン教授(Prof. Mujibur Rehman)が指摘するように、その日は、ドームの崩壊とともに、大切にしてきた価値観をすべて失ってしまった日なのだ。

 Babri Masjidの瓦礫は、ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)が願ったような「恐怖を抱かない(without fear)」心ではない状態の、国の方向を変えた未来を書き記したのです(タゴールは、英国統治下で人々があらゆる種類の恐怖を抱き尊厳を失っていた状態からの脱却を願い “Where the mind is without fear” という詩を書きました)。

 この歴史あるモスクが破壊されるに至った経緯については、多くの研究・文献がある。だから、あの忌まわしい日からの30年を記念し、同じ轍を踏むことは無駄である。むしろ、当時の初期の基本的精神を忘れずに共有していた時代に寄り添い、私たちの民主主義のあり方を大きく変えた道徳観の変遷に目を向けることが賢明であろう。

 第一に、事件後の局面で目撃した大きな変化は、真実の認識に関係している。ラム・ジャンマブーミ(Ram Janmabhoomi)を支持した最高裁の決定的な判決によって、私たちは、科学的真実が、著名な政治人類学者トーマス・ブロム・ハンセン(Thomas Blom Hansen)の言う「感情的真実」と対決する瞬間に到達したのである。つまり、ポストトゥルース時代のルーツは、デジタル世界の介入よりはるか以前に見出すことができるのだ。科学的で証拠に基づく真実に対して、大衆的な真実が称賛されたことが、何らかの形でポスト真実体制の種をまいたのである。

 第二に、コスモポリタンな都市は多様性を象徴し、村社会のように宗教やカーストが抑止力として機能することはないように見えるという、社会学的な考え方が問われた。ムンバイの暴動と、その結果として都市全体で見られた空間的隔離は、米国南部の都市が白人と黒人に極端に分けられ、明らかに後者を最低限のインフラと設備しかないゲットーのような構造に追いやったジムクロー法の時代(1870年代から1960年代までアメリカ南部において、州・郡・市町村レベルで人種隔離を定めた規則と条例 Jim Crow laws)を思い起こさせた。アーメダバードやムンバイで先に起こった陰惨な暴動が都市の風景を変えなかったとは言わないが、分断がこれほどまでに鋭くなったのは1993年であり、作家Radhika Subramaniamのいう「疑いの文化」だけが社会流動性の限界を決定していた歴史のどの瞬間よりも厳しかった。

真実をめぐる戦い

 歴史学者で著名なHarbans Mukhia教授は、2017年のEPW(独立系週刊誌メディア Economic and Political Weekly (EPW), https://www.epw.in/) の記事論文「The Fateful Day」の中で我々を最初の疑問に立ち戻らせるいくつかの歴史的事実を要約しています。

  • Rama 君主の生誕地がまさにBabri Masjidの位置にあるという主張はいつから強くなったのか?、
  • 彼らの主張を裏付ける資料はあったのか、それとも記憶に刻まれただけなのか?

 バブリー・マスジッドの内壁と外壁に刻まれた碑文は、その建設の最も重要で基本的な証拠と考えられる。バブールの回顧録を翻訳したA・S・Beveridgeは、この碑文に注目し、2組に翻訳している。1つ目は、

世界の創造者である全知全能の神の御名(しかし)彼自身の御名において

預言者に敬意を表し、すべての称賛を超えて

二つの世界の預言者の中で最も優れた方

世捨て人バーブルの物語を世界に語る

世俗的な成功の高みに到達した者。

ベヴァリッジは、行間をあまり読まないようにと注意を促しながら、2つ目の詩をあげた。

バーブル皇帝の命により

その正義は天の高さまで届く建物の如く心優しきミール・バキが

この天使の降り立つ場所を建設し

この善良さが永遠に続くように

その言葉で、建設した年が明らかにされ。

この善良さが永遠に続きますように。

 バーブルの名で、彼の兵士バキがマスジドを建設したことが明らかになった。しかし、それは寺院の創建が理由で破壊されたことを示すものでは決してありません。バーブル自身は自伝『バーブル・ナマ』の中で、1527-28年の間にアヨーディヤを2回訪れ、行政上の目的で数日間滞在したと述べているが、バキに寺院の上にモスクを建てるよう指示したことについては、わざわざ触れていない。

 Ayodhya(アヨーディヤ)(Awadh(アワド))についての次の記述は、16世紀末に書かれたAbul Faazlの『 Ain-I- Akbari(アイン・イ・アクバリ)』に見られ、彼はこの都市が「Raja Ramchandra(ラジャ・ラムチャンドラ)の保護下にあった」と述べているが、寺院の残骸の上に建てられたモスクについては言及されていない。Mukhiaが正しく指摘するように、マスジドの敷地にある詩も、Baburの子孫からBahadur Shahまでの著作にも、破壊された寺院の上に建てられたモスクについての記述はない。最も偏屈だと思われているアウ ルンゼブでさえ、ムガール人政権に栄光を加えたかもしれないそのような歴史的な出来事 に言及していない。「もしムガル帝国の支配者の中で他に誰もいないなかったのであれば、アウラングゼーブは偉大な前任者の行為をきっと喜んで記録したでしょう、もし聞いていれば」と、Mukhiaは指摘します。

 17 世紀と 18 世紀のヨーロッパの旅行記も、Ram Mandir(ラム マンディール、モスク跡地に建設中のヒンドゥー寺院)のそのような破壊について沈黙していることがわかった。 しかし、 Ram Janmabhoomi(ラム ジャンマブーミ、ラーマの生誕地)とモスクとの最初のつながりは 1822 年にさかのぼり、あるHafizullah(ハフィズラー、神職)が Faizabad law court(ファイザーバード法廷、Uttar Pradeshの地名)に提出した文書の中で次のように述べている。 

 「The Jama masjid(ジャマ マスジド、モスク)は、Emperor Babur(バブール皇帝)によって建設され、Janma Asthān(ジャンマ アスターン)にあり、 Raja Dasrat(ラージャ ダスラト、コーサラ王国の王)の息子であるラム(Ram)の生誕地にあり、上述のラムの妻であるシーター(Sita)のラソイ(Rasoi 、Ramaの妻Sitaが食事の用意をしたキッチン) の建物に隣接している」

 彼の言及はラムのjanmasthan(Janma Asthān、ジャンマ アスターン)に及んでいますが、寺院の存在については確かに沈黙しています。19 世紀のころはずっと、寺院の比喩に歪みを加えて一般的な真実にするなど非常に困難であった。1870 年に、P Carnegy は著書「Historical Sketch of Faizabad District」の中で、Ramと仏陀のどちらに帰着させるかは定かでなかったものの、黒い石柱の存在を引き合いに出し、寺院の存在に間接的に言及した。別の文章では、Carnegy は「当地で確認された」情報源から、古代の寺院があったことを知ったと述べている。

 しかし、1922年に出版されたBeveridgeの翻訳『 Babur Nama』の付録においてRam Mandir論は強化された。注目すべきは、寺院の取り壊し命令について語った彼のメモの背後に、預言者ムハンマドの信奉者(PBUH)として、 Baburは他の信仰に対して不寛容で、古代ヒンドゥー教の聖地を破壊したに違いないという推定があることである。

 「おそらくモスク建設の命令が下されたのは、934 AH [1527-28 AD]のBaburのオード(アヨディヤ)滞在の間で、その時彼は、モスクが(少なくとも部分的には)置き換えた古代ヒンドゥー教の神社の威厳と神聖さに感銘を受け、ムハンマドの忠実な信者のように、他の信仰に不寛容で、寺院のモスクへの置き換えは忠実で価値のあることと考えただろう」 と書かれている。

 この事実をめぐる旅は、碑文の時代から『バブール・ナーマ』のヨーロッパ語訳が出版されるまでに及び、寺院が徐々に言説の中に取り込まれていったことを示す。分割の苦悩とHindu Rashtra(ヒンドゥの国)への願望の高まりによって、これらの過ぎてしまう事実は、多くの人に信じられながらも誰も証明できない「感情的真実」となったのである。

 この真実の汚濁は、綿密な数十年にわたる司法の長期の監視の目を容易に逃れたが、それは国民の良心が何らかの形で、あるいは別の形で、Ram Janmabhoomi(Rama’s birthplace、ラム生誕の地)に傾いていたためだ。この議論によって、あらゆる科学的真実が疑われる状況に追い込まれたのだ。あるときはGyanvapi(バラナシのモスク)が、またあるときはタージマハルが、私たちの日常的に共有される情報の一部となったのだ。ポスト・トルゥースの時代には、複数の真実が戯れを起こし、証拠は主観的に変容する。 Babri Masjid の破壊は私たちを、偏見なしに真実を見られない状況に追い込んだ。私たちの目の前にある唯一の疑問は、もう真実は本当に存在しないのか?、ということだ。

バブリー・マスジッド破壊事件

不寛容の瓦礫の中で

興味深いことに、ウッタル・プラデーシュ州のモスク破壊は、ムンバイの街中に深刻な緊張をもたらしました。メディアの報道によれば、モスク破壊から4日以内に、全国で少なくとも950人が殺害された。そのほとんどがイスラム教徒で、ムンバイではその多くが警察の凶弾に倒れた。12月10日、政府は、 Babri 解体を引き起こしたRSS、VHP、Bajrang Dalの挑発的なスピーチを禁止すると発令した。均衡を図るために、2つのイスラム教組織にも禁止を発令した。しかし、この禁止令は6ヶ月足らずで解除されました。

しかし、1993年1月6日、JogeshwariのGandhi chawlでBane一家とその隣人が生きたまま焼き殺され、事態は収拾がつかなくなった。 Shiv Sena(マラーティー地域のインド極右およびヒンズー教超国家主義政党)及び右翼連合は、この殺人を武器にさらなる攻撃を画策した。Thomas Blom Hansenは、その後の6日間で、少なくとも900人が殺され、約10万人が二度と戻ってこないと誓って街を去ったと指摘している。この暴力はあまりに残忍で、1993年1月11日の Shiv Senaの口上書Saamnaは「もうたくさんだ」という見出しで中止を訴えたほどであった。

1998 年に最高裁が「粗雑な捜査」と信じがたい目撃証言のために 11 人の被告人全員を無罪にし たので、誰が Banes を殺したのかは明らかにならなかったが、この事件は、諸政党によって最良の方法で利用された。Meena MenonはEPW(Economic and Political Weekly)の論文「暴力の影 (The Shadow of Violence, 25 Years After Babri Masjid」の中で、この陰惨な事件で両親を失ったSudarshan Baneが、Atal Bihari Vajpayeeを含むBJP-Shiv Senaの指導者に次々と会い、「何の救いもなかった」ことを回想したと述べています。

Jogeshwari(東部)は昔から微妙な地域だったが、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が、ごくわずかな境界線で分かれ、長い間一緒に暮らしていた。1960年代以降、さまざまなコミュニティからの移住によりMenonが指摘するように「火薬箱」のような状態になった。それでも、人々が自分たちの居住区を作り始めたのは、1993 年の暴動とそれに続く爆弾の爆発の後で、そこは少なくとも海岸を通って来るかもしれない侵略者の攻撃からは「安全」と考えられた。

ベイン一家の運命とその他の残忍な事件のニュースは、国中に燎原の火の如く広がった。ヒンドゥー右派に政治的な配当を与えただけでなく、むしろこれらの大都市の誇りであったコスモポリタニズムに疑問を投げかけたのである。しかし、インドの各都市に十分な大きさの「小パキスタン」が生まれたのは、1993年のムンバイ暴動と連続爆破事件の副産物であると言うのは間違いであろう、多文化的な都市生活に終止符を打つことになったのは間違いない。

Babri Masjid の破壊は、合理性に感情性が、客観に対し複数の主観が、大都市の宣言されたコスモポリタニズムに対し露骨な人種差別が、立ちはだかる時代へと私たちを導きました。解体の 30 年を記念するとき、それは単なる理念の戦いではなく、かつて「インド」を作った価値観のための闘争になっています。